頭悪そうとか学習障害と叩かれているエスト(@ESTO_geography)です。
僕は名門大学を卒業していますが、今思えば背伸びしすぎて身の丈に合わなかったなぁと痛感しています。
大学受験は勉強だけできれば通ることができるんですが、勉強以外の素養がまるで別世界の人たちでしたね。
同じ大学の平均的な人たちとは幼少期から育ってきた環境や経験がまるで違うと思いました。
確かに高学歴に優等生の人は多いですが、あくまで傾向で僕のような劣等生もいることをもっと認知されてほしいなぁ。。
優等生とはそもそも育ってた環境が違う
公立の中学が社会の縮図とはよくいわれるけど、当時僕が遊んでたのはあまり勉強できない劣等生側の友達しかいなかった。
優等生からは不可触民のような扱い。ほとんど話した記憶がない。
そして進学校の高校に進み、周りは皆優等生。
歯車が狂ったな。— えすと@ADHD危機遺産🌏 (@ESTO_geography) September 24, 2018
僕が30年近く生きてて思ったのは、大卒の人より高卒の人の方が価値観を共有できるということです。
義務教育の中学校までは学力関係なく地域の同級生が同じ学校に集まります。
東京や大阪のような大都市だと中学受験して名門私立中学に入る人もザラにいるでしょうが、僕の育った田舎は中学受験する中学がありませんでした。
地元の優等生から劣等生まで、幅広い人たちが同じ中学に通ってたのです。
僕は勉強はそこそこできたのですが、素行や品行は優等生とは真逆でした。
失礼なことを承知で書きますが、一緒に遊んでた友達は成績下層で授業態度が悪かったり宿題を出さない劣等生タイプでした。僕は彼らと「本質」の点で同じだと思います。違いは僕は勉強ができるというところだけで。
生徒会長や学級委員長を歴任したいかにも優等生な人とはほとんど話した記憶がありません。
生徒会長は学校に1人だけなので経験者の数はそう多くはないでしょうが、部活のキャプテンを経験した人は部活の数だけいるでしょう。
また体育委員会や図書委員会などの各種委員会の委員長まで含めると、学内政治に携わったことがある人はそんなに珍しくはないはずです。
優等生とは勉強の能力を測る学力や偏差値ではなく、経験値の差があると僕は切実に感じています。
机の上での勉強だけでなく濃密な人間関係の中で揉まれて、時には苦労することがあってもそれを乗り越えてきた経験があるはず。
僕は学校の活動をすべて「茶番」だと思って参画しませんでした。というか表向きには参画してるように見せて適当に受け身で過ごしていました。
僕は勉強だけはできたので進学校に進んだのですが、行き着いたそこは優等生の集りでした。
僕のことを不可触民として避けていた人たちがデフォルトになると、そりゃ僕が浮くでしょうね。
高校で友達ができなかったわけではありませんが、気持ちの上で友達と思える人には出会えませんでした。
名門大学で18年以上の経験差を埋め合わせるのはもはや不可能
大卒の人と価値観が合わないと思う所以は、偏差値底辺でも1、2年勉強すれば名の通った大学に入ることはできるけど、優等生として生徒会長など学校の政治に携わってた経験を何事も受け身で考えずに生きてきた人が埋め合わせするのは非常に困難だということから。
生まれてから18年以上の差はでかい。— えすと@ADHD危機遺産🌏 (@ESTO_geography) September 24, 2018
進学校といっても卒業生の大部分はFラン大学に進学するという典型的な地方の”自称”進学校でしたね。
この環境は僕にとってはまだ水が合ってたと思います。大学と比べると。
僕の大学は名前を挙げれば知らない人はいないであろう有名大学です。世代の成績上位5%に入るらしいです。
トップ層は東大や京大に進学するレベルの進学校出身がほとんどであり、そんな環境で育ってきた人たちは優等生の典型ばかりでした。
勉強だけでなく部活動もしっかり行ってた人が多く、体育会系で敬語の使い方や挨拶が身についてる人もたくさんいました。礼儀作法が自然と身についていて、できない人にやたら厳しい。
高校では帰宅部だった僕には彼らの振る舞いが異次元でした。社会人として大切な素養だと思うのですが、当時の僕には理解できませんでした。
優等生の考え方の特徴として感性よりも理屈を求める人が多く、僕は感性の赴くままに行動するタイプだったので自分の行動に理屈はありません。これも大きな齟齬を生みました。
たとえば僕はヤクルトスワローズのファンなのですが「福島出身なのになぜヤクルト?もしかして隣県の新潟に移設する案があるから?」と聞いてきた人がいました。(うるせぇ、僕は神宮球場がホームのスワローズが好きなんだよ!!)
何かと理由を求めるのが高学歴の優等生あるあるなのでしょうが、僕は彼らとはだいぶ温度差を感じていました。
18年以上優等生として生きてきた人と僕は素養が全く異なるのでしょうね。
高学歴らしくない高学歴は自分にあった道を模索していくしかない

学歴という側面ではそれなりに上位のところに食い込めましたが、生き方のベースは一般的な高学歴の人とはまるで違うことに気づかされました。
僕も高学歴のサロンに入れるよう努力をしましたが、幼少期の育った環境から違う人たちに合わせるのはもう無理があると思います。
僕は偏差値や学力はそこそこ高くても、「優等生」の本質を手にすることはできませんでした。
就職した会社でも忘年会の幹事といういかにも優等生な役どころを任されたことがありますが、やはり進行がグダグダでした。
やはり僕には一般的な高学歴の人間の素養がありません。身の丈が合わなかったとしか言いようがないですね。
勉強ができるからといって、人間性が優れているとは限らないのですよ・・・・・・・。
高学歴の人のほうが人としての素養が優れている傾向があるというのは周知の事実でしょうが、僕のようなイレギュラーもいるのです。期待されるのがつらいのです。
僕は僕なりに、学歴のしがらみがない自分に最も合った世界で生きることを模索しています。
その一つがこうやってブログで自分の考えを発信することですかね。
折角手に入れた学歴ですので、決して無駄にすることがないようにしたい。世の中まだ学歴信仰が根強いですからね。大学に進んだことは全く後悔していません。